今を去るおよそ1800年前、我が国は倭国とか、邪馬台国とか呼ばれ、西暦300年代漸く大陸の中国や朝鮮との文化交流が盛んになり始めました。
その頃既にこの現在の法輪寺寺域に三光明星尊をお奉りした「
かように彼等が移住しましてからは、中国から進んだ東洋の文化工芸を移入し発展させましたので、この地方の住民もその影響を受けて仕事を手伝い、この地はだんだんと文化工芸の中心となってきたのであります。
彼等中国から移住した一族は秦氏族と呼ばれ又彼等一族の守護繁栄の祖神として崇敬しております「葛野井宮」を中心としてますます発展することを祈り、その名をもとにしてこの広い地域を「
応神天皇の時代(350年〜450年頃)には文化をすすめる思召しから秦氏族を多く移住させ、この民族たちの技芸によりまして、地方民の生活は豊かに、そしてこの地方はだんだん開発されていきました。このありさまは「古事記」「日本書紀」の応神天皇の章にも天皇のおよろこびと国讃めのお歌が記されており、当時の秦氏族の発展、民家の栄えたありさまが明らかに推測することが出来ます。
奈良時代に入って
その寺の名は「
さて
西暦800年頃、弘法大師の高弟で
その直後清和天皇の貞観10年(AD868年)葛井寺を「法輪寺」と改められました。
次いで貞観16年(AD874年)山腹をひらき、大いに堂の建物を改修、その後天慶年間(AD938年〜947年)に空也上人が参篭し、勧進によって新たに堂塔を修造したと伝えられております。
応仁元年(AD1467年)西軍畠山義就は東軍の筒井光宣を法輪寺の門前で迎撃し、その際建物の多くが類焼したと云われ、法輪寺も所謂応仁の乱の災禍を受けて、以后当分の間寺勢の衰退が続くこととなります。
慶長2年(AD1597年)後陽成天皇は法輪寺再興勧進の勅旨を下賜され、諸国から造営の浄財を募ると共に加賀前田家の帰依を得て堂を再建改築し、中世以来の荒廃した寺観は面目を一新し、「智福山」の勅号を賜って木上山を「智福山」と改め、慶長11年(AD1607年)九月に盛大な落慶法要を営まれました。
そして元治元年(AD1864年)七月蛤御門の変の際、長州藩の浪士が渡月橋を挟んで対岸の天龍寺に集結、十九日の戦闘で法輪寺の建物はことごとく灰燼に帰してしまいました。
その後現在の建物は、本堂を明治十七年(AD1884年)に再建し、客殿、玄関、回廊、庫裏、山門等順次竣工して大正三年(AD1914年)に、漸く往事の寺観を復興し今日に至っているのであります。
その大空の中には種々の物々、即ち日月、星をはじめ一切の山川、土地、草木などあらゆる森羅万象、生物をことごとく包容し、余すところないように納め
ておりますことは、ちょうど世間で云う大きな宝蔵に多くの財宝を収めておりますのと同様であるというようなわけで、虚空の姿を宝蔵になぞらえて、虚空蔵というのであります。
大空(宇宙)はあらゆる一切の物を収蔵して、光、熱、雨、水、温、湿など、絶えず自然の恩恵を与え、平等に、しかも無限の動植物を育成しております。
虚空蔵菩薩はこの広大分限の大空の徳性を総合する霊位であり、我々のみ親でありますから、無限のご利益を人間をはじめ動植物の育成から一切の物資の生産に至るまで
そして特にこの法輪寺の虚空蔵菩薩は降臨せられましたときの御本誓に「智恵を得んと慾し」、「福徳を得んと慾し」、「種々の芸道に長じ、技芸に上達せんと慾し」、「玄妙の域に達するような流暢な音声を出し、歌舞音曲の奥義を極め栄達を得んと慾し」、「官位、称号、免許を得るように慾し」、「内外とも身分にふさわしい威徳を得るように慾し」・・・など祈願するものは、わが名(虚空蔵尊名)を
このことと、法輪寺の由来が秦代族らもともと工芸、技芸を職とした人々に深く信仰された「葛野井宮」が起源であることと合わせて、幼少年期より青年期に移ろうとする人生の転換期に、智福を与え、技芸に長じさせ給えとの虚空蔵寺への守護祈願、即ち毎年四月十三日十三歳になった男女が参詣する「十三詣り」の慣わしや裁縫、服飾、芸術など技芸の上達を祈願する「針供養」(毎年十二月八日、二月八日)の行事が行われるようになったのではないでしょうか。
又染織、漆器、彫刻、醸造、酒造など所謂美術工芸に関連した商工業者からも厚く信仰を得ているのも法輪寺虚空蔵尊の前記御本誓や、往古秦氏族の信仰していたことに関連していると思われます。
電気・電子関係の仕事に携わる人々からの篤い信仰を集めます。
法輪寺の舞台からは渡月橋、嵯峨野を一望できます。大文字送り火の夜には一般に開放されます。
8月16日の送り火の日は舞台が開放されます。
本殿右の寺務所では奥本殿に伝わる虚空蔵求聞持法の御本尊を収めたmicroSDお守りの授与があります。